発達障害は一口に括れない。自分の特性を知ることの重要性。社会への希望。【当事者交流会を開いて】

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先日、第一回の発達障害勉強交流会を主催しました。

 

プライバシーに関わることは書けませんが、会を開いて自分が考えたことを書き記したいと思います。

発達障害では括りきれない

 

一口に発達障害と言っても、その症状は自分が想像していた以上に多岐にわたることを感じた。

症状が多岐にわたるということは、それだけ他人から理解してもらうのが難しいということだ。

 

定型発達者にも(発達障害者にも)「発達障害とはこういうものだろう」という想定が何となくあるかもしれないが、おそらく症状の多様性はその想像をはるかに超えてくる。

 

だからこそある程度共通している悩みも見えてきた。症状が多様である分、他人に理解してもらうのが難しいということだ。

 

特に認知度の低い特有の症状を抱えてる人はその負担が大きいのだと思った。

(もちろんこれは発達障害に限った問題ではない、ニューロダイバーシティという考え方もある。誰しも人と異なる)

 

自分の特性を理解する

 

自分が神経発達上「どのような特徴を持っているのか、あるいは人とここが違うのか」と認識することの難しさと重要性も感じた。

 

やはりできないものはできない、苦手なことは苦手ということはある。(そのこと良しとするという意味ではない。)

 

苦手なりに、工夫するのか、対策するのか、サポートしてもらうのか、他の部分で活躍するのか、という選択はあるが、何にせよまず自らの特徴を知らないことには対処のしようがなく、劣等感に苛まれてしまうだろう。

 

特性を知ることは難しい?

 

神経発達の問題は目に見えない、例えばクラス30人で学校生活をしていて、自分だけテストの点数が低いことは単なる努力不足なのか、それとも学習する上での障害を抱えているのかの判断は難しい。

 

あるいは、周りに合わせて1時間席に着くこと一つとっても、それにかかるコストが他人とどれほど異なっているのかを簡単に比べることはできない。

 

例えば、A君はじっとしていることが苦手で、多大なストレスを抱えながら、日々自分の身を席に縛り付けていたとしよう。

 

休み時間にA君はB君に「授業1時間も座ってんのだるくね?」と聞いたとして、B君は「そうだな」と答えるかもしれない。あるいは「そうでもないだろ」というかもしれない。

 

さて、この時にA君が仮にADHDだったとしてそのことに気づけるだろうか?そんなもんかと思うだけかもしれない、努力が足りないのかと自分を責めるかもしれない、発達障害という概念をそもそも知らないかもしれない。

 

そして、そのことを親に相談してみたとしよう。親は何と答えるだろう。「お前は不真面目だなあ」と言われるかもしれない。あるいは「みんなそんなもんだろう」というかもしれない。あるいは発達障害に理解があれば「それはADHDの可能性がある」といってくれる可能性もある。

 

目に見えない特徴において他人との違いに気がつくのは難しい。現に自分の場合も30歳を過ぎるまで違和感を感じながらも、自らが発達障害だと考えたこともなかった。

 

なぜなら知識がなかったし、そのような助言を与えてもらったこともなかった。さらに多大なストレスを払えば何とか皆と同じように振る舞えていると思い込んでいたからだ。(当然今思えば皆と同じようには振る舞えてはいなかったし、徐々に精神は蝕まれていて他の精神疾患に派生していったのだが)

 

今は他人に合わせるのではなく自分の状態に耳を傾けることを知っている。文献にあたり医者や専門家に頼るという方策を備えている。

 

そう考えていくと大人や社会の役割はこの辺りをサポートするところにあるのだろうかと思う今日この頃。

 

社会に対する希望

 

さて社会的な責任といえば、やはり社会の側は神経発達上の多様性があることを理解している必要があると思う。まだこの認知は十分ではないと思う。自分の問題意識の一つはこの知見を広めることでもある。だから交流会や読書会を開く、ブログも書く。

 

ただその上で、苦しくない人間が苦しんでる人間のこと知ろうというインセンティブをどのように持ってくるか、という課題を日々感じている。

 

だが希望もある。偉大なる先人たちはあらゆる差別や偏見を乗り越えてきた、(多大な犠牲と引き換えに…)人種やジェンダーなど彼らの試みを学ぶ必要は感じている。

 

感想

 

人の話を直に聞くことで発達障害の多様性を肌に感じ、どこまでを社会の問題、個人の問題とするかを考える契機になった。また伝える大切さ伝わらない苦しさを共有できた。

 

P.S. 会を開くことについて

 

自分は本当に人が苦手である。

苦手であるというのは、臆病で人見知りで内弁慶であるということだ。人に会うと色々勝手に気を回して、他人の顔色を窺って疲弊してしまう。(だいぶ慣れたし、安心できる知り合いも増えてきている幸い)

 

加えてファシリテート能力が皆無である。マルチタスクができないので、時間を管理しながら自分の話をして人の話を聞くというのが本当に難儀である。

 

課題は多い…

 

昨日はありがたいことに、初めての回にもかかわらず4人も集まっていただいた。

 

始まる前は吐くほど緊張した。終わったあとは身体中痛いし頭もぼーっとしている

(自分にとって「社交能力の発揮」はクラピカのエンペラータイムであり、カカシの写輪眼なのである。無理をすればできるが反動が大きい(その上彼らのように超人的な能力を得られるわけではなく、凡夫を演じられるに過ぎない…)何日か寝込むだろう…)

 

それでも今はこのような会を開く意義や価値を感じている。(昔は不安が圧勝してとてもそんな状態ではなかったが) 

 

頻度や規模の調整は必要であるが、これからも継続したい。

 

参加していただいた皆様ありがとうございました。

 

以上、拙筆拙文にて。

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