いつからこうなっていたのか、正確な境目はもう思い出せない。
ただ、ふと気づいたときには、自分の声がどんなものだったのも忘れてしまった。
「もう、限界を超えてしまったんだ」
実体がなかった。ひとりごとのようでもあり、祈りのようでもあり、苦情のようでもあった。空気は湿っていて、それにもかかわらず独房の壁はあらゆる騒音を反響させていた。窓を開ければ街の排気ガスが、閉めれば埃とカビのにおいがした。どちらにせよ、無意識に呼吸が浅くなる。
自分とはなんなのだろう。漠然とした不安や恐怖が次第に自分自身の存在を問う疑問に変わっていった。
誰かがいた。それ以上は思考が先に進むことを許さない。微かな残り香はあるが深く追うことはできない。
諦めているのだ。体が遮断することをクセづけている。
かつてはこうではなかった、思考の海に潜りすぎて上下不覚になり何年も浮上できない程であった。今はあてもなくただ海面を漂っている。しかし苦しみだけが変わらず流れ続けている。
つまり思考そのものや思考に意識が向いてることが問題ではなかったということだ。
久しぶりに深く考えた気がした。しかし、これ以上前に進む意志というものももう感じられない。どこか道すがら落としてきてしまったようだ。かつて自分が最も強く煽り燃やしていたはずだったものなのに。
毎日、日が暮れる頃になると意識がぼやけ、何が自分の肉体を操作しているのかわからなくなる。気がついたら劣等感と悲しみに、心ーもはや自分のものではないーを支配され。失意と涙と共に眠る。
「これは、昨日もこうだっただろうか?」
日常が輪郭を失っていく。けれど、それを確かめようとすらしなくなっていた。うっすらとした疑問だけが頭を取り巻いている。
人の記憶ほど信用ならぬものはない。
初恋をすりガラス越しに眺める。
彼女の明るい笑顔。その実存性を確かめる術はない。だが確かに刻まれている。それだけで十分だ。決して幸せな気持ちにさせてくれるわけではない。むしろ喪失感しかもたらされない。
学生だった時分、世間から置き去りにされ、歪み、誰にも真っすぐ見られなくなった、もう一人の自分。
「なぜこうなったんだ」
その問いが何度も胸の奥で跳ね返る。毎回同じ顔をして戻ってくる。
――自分は能力が欠落していたから
――意志なんて存在しないから
同じことの繰り返しのようだが、無限回繰り返される壁打ちの中で、白球の表面はいつのまにかささくれ立ち薄茶色く変色していた。
自分を最も虚無に陥れる存在。かつて最も信頼を寄せ燃え上がらせていた意志。それが自らを傷つけ、今や存在が霧散してしまっている。
もしかして、自分は彼が地に堕ちていくのを、どこかで待っていたのではないか?
――ああ、そうか。そうかもしれない。
彼が崩れていくのを見ることは、自分がまだ「正常」であるという最後の証なのだ。